キクチ文具
1.七夕の伝説と由来



<七夕伝説>
七夕の星祭りの、天界に繰り広げられる物語は、中国に古くから伝わっている伝説です。
 むかし、天の帝に織女(しょくじょ)という一人の美しい娘がおりました。技芸にすぐれ、毎日、機(はた)を織って暮らしていました。  そのうち、農耕に一生懸命な牽牛(けんぎゅう)と結婚し、二人は夫婦になりました。ところが、それからというもの織女は、 あれほど熱心だった機織りをやめてしまったのです。父の天帝は怒って牽牛を織女から引き離し、銀河のかなたに追放してしまいました。 しかし、悲しみにくれる織女を見かねた帝は、年に一度、七月七日だけ逢うことをゆるしたのです。  以来、牽牛は七月七日が来ると、銀河を渡って織女に逢いに来ました。その日が雨のため、水が増して銀河を渡れないと、 鵲(かささぎ)が群れ集まって翼を広げ、橋となって渡してくれました。
織女は琴座の「ベガ」、牽牛は鷲座の「アルタイル」という星で、この二つの星が、年に一度、七月七日の夜に近づくところから、この伝説が生まれました。

<七夕祭りの由来>
 織女星(しょくじょせい)と牽牛星(けんぎゅうせい)−この二つの星を祭って、乞う(願う)巧(技芸)奠(まつり) を意味する乞巧奠(きっこうてん)は、日本でも早くから取り入れられたようです。白鳳時代の持統(じとう)天皇五年(西暦691年) 七月七日に、公卿たちと宴を開き、衣服を贈られたと日本書記にあり、また、公事根源(くじこんげん)には、孝謙(こうけん)天皇 の天平勝宝七年(西暦755年)に、初めて乞巧奠を行ったとあります。
 七夕祭りはその後もながく行われてきましたが、宮廷と武家に限られたもので、これが民間に伝えられるようになったのは、近世に 入ってからのことです。江戸時代の寺子屋教育の影響によって、織女星と牽牛星の星が一年でもっとも近づく七月七日にはこれを祭って、 女の子は手芸の上達を願い、男の子は手習いの上達を願いました。また、幕府が七夕をふくむ五節句を制定したこともあり、七夕祭りは 全国に広がっていったのです。七夕飾りの最初は、笹竹に五色の糸を垂らすだけでした。「和歌」で宮中に仕えた公家の冷泉家(京都)は、 様々な文化と共に七夕の行事を昔ながらに今に伝えています。
 その後色々と移り変わり、五色の糸も吹き流しとなり現在の七夕となったのです。
 冷泉家では、旧暦七月七日に乞巧奠を行っていますが、二星へのお供え物をのせる祭壇を星の座と呼んでいます。
<七夕の語源>
 日本では古来、正月と七月の、月が満月になる十五日は、祖先の霊を迎える祀(まつり)の日で、正月の七草の日とともに七月七日(ナヌカビ)は、 十五日の祀りの準備に入る斎日(いわいび)でした。
 七月七日頃はちょうど稲の開花期。水害や病害虫が心配される時期でもあったことから、稲の収穫の無事を祈ろうと七夕をもって田ノ神の祭りとし、 水辺に設けられた棚の上の機家(はたや)の「棚機」(たなばた)で、選ばれた乙女たちが先祖に捧げる御衣(みころも)を織り上げました。



この乙女たちを「棚機女」、「織女」と書き、″タナバタツメ″と読みました。
 この行事が、中国の星祭りと結びついて、「たなばた」を「七夕」と書くようになったと言われています。

キクチ 1978年 金賞

 ほしひかり あまた幼子いつくしむ 幸せいのる
 こよい七夕」

2.仙台の七夕


<仙台の七夕と奈良の
    天の川と織姫神社のつながり>

 奈良時代以前に、朝鮮半島の戦に破れた百済(くだら)王家が日本をたよって逃れてきた際、 時の天皇により多賀城の守りを命ぜられました。

 聖武天皇が造営した、奈良の東大寺の大仏は、当時、金箔にする金が不足し完成が危ぶまれていました。 この時、多賀城の百済王敬福(きょうふく)は、遠田郡涌谷の黄金山神社一帯で大量の金を発見し、天皇に献上しました。 その砂金のおかげで大仏を完成できた聖武天皇は大変お喜びになり、この功績により、百済王家は奈良近く(現在の大阪府枚方市付近) 一帯を賜ったのです。
そして、川の名を天の川(淀川上流) とし逢合橋をはさんで、織姫が祭神の機物(はたもの)神社と牽牛石(けんぎゅうせき)(枚方(ひらかた)市に現存)を祀りました。
 百済王家は、その後も数代にわたり、陸奥守に任ぜられたのです。
 このように中国で生まれた風習が、朝鮮半島の百済、奈良を経て、奥州、仙台へと伝わってきたと思われます。

<藩政時代の仙台七夕祭り・・・>
 藩祖政宗(はんそまさむね)公が、寛永六年(1629年)七月七日に、 母・保春院の七回忌の折に、「七夕の逢瀬(おうせ)ながらも暁(あかつきの) の別れはいかに初秋の空」と歌を詠んでいることから、この時すでに七夕の行事 を取り入れていることがわかります。政宗公は、婦女子文化のためにと七夕の行事を 奨励したとも言われています。
 また、四代藩主綱村(つなむら)公が八才、幼名亀千代君(かめちよぎみ)のとき に書いた「七夕」の書が残っています。さらに、伊達家の大藩士だったという「浜田 氏年中行事」には、「六日 五色(ごしき)の紙、色紙、短冊に詩歌を書いて竹へ付、 牽牛織女の星を祭る。七日朝なれ共旧例によって今夜より七日夜まで立置也(たてお くなり)」とあり、武家の七夕の一端が見られます。

 仙台の七夕祭りは、昔は陰暦七月六日の宵(よい)に行われましたが、明治になって陽 暦八月六日の宵にと変わり、近年は八月六日から八日までの三日間行われるようになりました。 二代目十辺舎一九(じっぺんしゃいっく)の「仙台年中行事」には次のように書かれています。
 「七月七日棚機祭、六日夜より篠竹(しのだけ)に、色紙(しきし)短冊(たんざく)、草々 (くさぐさ)の形を切って歌をかき 又は堤灯をともし 七日の朝評定川または支倉川、澱川 (よどみがわ)へながす」また、伊達十三代藩主楽山(らくざん)公慶邦(よしくに)の随筆 「やくたい草」にも、「七月七日を七夕といひて、六日の夕より七日の朝を、五色の色紙短冊 に書き、又うちわ扇様の類おもひくに女子どものつくり物、笹竹にむすびつけて軒端にたて、 二星をまつりて、其笹竹を七日の朝には、かならず川に流す事は、いづこも同じならはしなり。 仙台にては六日の晩にこのまつりをして、七日の暁には広瀬川の評定橋より笹を流す風習なり。 (下略)」と、七夕の様子が記されています。
 六日の宵に竹を立てて飾ることは、従来から全国で一般的だったようです。

<現在の七夕祭りに至るまで>
 このように、仙台七夕祭りは、武家屋敷、商人町を問わず、町のすべてをあげて軒並み に七夕飾りを立てていたようです。しかし、明治維新の改革後、七夕祭りは衰退し、大正 時代から昭和にかけての不況は、さらに衰退に拍車をかけていきました。
 復活したのは、昭和三年に開催された東北産業博覧会がきっかけでした。
 仙台商工会議所と七夕祭協賛会が市内の町内会に呼びかけて、博覧会終了後に七夕祭りを実施、 初めて飾り付けのコンクールが行われました。仕掛物も披露され、大盛況のうちに三日間の祭り は幕を閉じました。こうして仙台の七夕祭りは少しずつ豪華となり、今では日本一と呼ばれるよ うになったのです。
 七夕祭りは一時期中断があったものの戦後の昭和21年、まだ世の中が混乱の状態にあった にもかかわらず、その傷跡がそちこちに残る街中に復興したのでした。翌22年8月5日には、 天皇陛下が東北地方ご視察の時に、仙台を訪れました。一日繰りあげての七夕祭りの、五彩 の笹飾りがゆれる中をお召自動車は通られ、陛下も「実にきれいであった」と大変お喜ばれ たそうです。
 その後、七夕飾りも年々、豪華さを増し、神奈川県平塚市や愛知県一の宮市をしのぐ全国 一と名を馳せ、三日間の祭りには二百万人を超す人々で賑わうまでになりました。この七夕 祭りが行われるようになってから、歴史の中で衰退もありましたが、その火を消さなかった のは、遠来の人々に満足していただけるよう、創意工夫し、美しいものを作ろうという仙台 の人々の強い思いがあったからといえます。その熱意が、現在のような繁栄につながったの でしょう。
 ところで七夕にはよく雨が降るといわれています。三日間晴れという日はあまりありません。 特に夏の日は夕立が多く、紙で作った七夕はひとたまりもありません。そこで、滑車を使うこ とで、素早く飾りを下げたり、上げたり、また、ビニール袋を用意するなど、いろいろと工夫 がなされています。七夕の三日間は、いつ見物に来られても満足して帰られるよう、みんなで 努力しているのです。

<仙台七夕、七つの飾りの意味>
 かつては、七夕の前日、町なかには近郷近在(きんごうきんざい)からやってきた竹売り の姿が見られました。笹竹は唐竹(からたけ)と孟宗竹(もうそうだけ)の両方が用いられ ましたが、最近は、若竹の葉が細かく枝が張っている孟宗竹が多く使われています。
 仙台七夕祭りの特徴である七つの飾りの一つ一つには、作った人の願いや祈りがこめられ ています。そして、仙台七夕飾りには、七つ飾りを下げるよう、仙台七夕まつり協賛会や商 店街では申し合わせているのです。
 伝統の七夕飾りには、次のような深い意味があります。
短冊(たんざく)

 六日の朝早く、カラトリ(サトイモ) の葉にたまった夜露をころがし、小川で 洗い清めた硯にうつし取ってそれで墨を すり、詩歌や「七夕」「天の川」などと 書いて、歌や書の上達を願いました。昔 は、梶の葉に歌をしたためました。現在 は願いごとを書くようになりました。
吹き流し(ふきながし)

 昔の織り糸を垂らした形をあらわしていて、 機織や技芸の上達を願いました。現在の吹き流 しは、この五色の織り糸の形が原点です。
折鶴(おりづる)

 延命長寿の願いがこめられています。かつては 一家の最年長者の年の数だけ折り、吊るしました。
投網(とあみ)

 魚介の豊漁を祈ると同時に、食べ物に不自由し ないよう豊作を祈りました。今年の幸運を寄せ集 めるという意味も含まれています。
層籠(くずかご)

 和紙飾りの裁ち屑を中に入れて下げますが、 清潔と節約の大切さを養います。
巾着(きんちゃく)

 富貴を願いながら、節約、貯蓄の心を養うこと を願って飾ります。
紙衣(かみごろも)

 紙で作った着物で、裁縫や技芸の上達の願いを かけました。七夕竹の一番先端に吊るすという習 わしがあり、子どもが丈夫に育つよう病や災いを 身代わりに流す形代の意味もあります。





 以上が仙台七夕の七つの飾りです。

<仙台七夕の昔からの飾り・・・・・・>
七夕線香(たなばたせんこう)
 普通は、水色の細い吹き流しの端に、一本ずつ線香をのりではりつけ たものです。もっとていねいになると、くま笹の葉で帆掛舟をつくって、 その下に線香を下げます。線香は、六日の夜更けに火をともすという習 わしがあり、七夕祭りが盆の祖霊を迎える準備ということから吊るした といいます。
 現在は火災のおそれがあるので飾ることもなくなりました。

仕掛物(しかけもの)
 七夕の日、明治の頃から仙台の商店街の一部では、店頭に仕掛物 を出して観衆を喜ばせていました。昭和に入って動く人形の仕掛物 となり、特に人気のある漫画のキャラクターなどは子供達を楽しませています。

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